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ラタトゥイユの夏

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   この夏、最初のラタトゥイユを作った。黄色いズッキーニが5本で110円、直売所で思わず手にしたからだ。  ラタトゥイユはいろんな鍋で作るけど、ル・クルーゼで作るのが一番好きだ。ちゃんと作るなら、野菜はそれぞれ炒め上がるのにかかる時間が違うから、野菜ごとに分けて炒めるのがいいらしい。でも、一緒くたに炒めても、まあまあおいしくできるし、野菜がいっぱい食べられるから、簡単にテキトーに作っている。野菜はズッキーニなんて無くても、ナスとかピーマンとかの夏野菜があればいい。それに玉ねぎ、人参とかあるものを入れたければ入れる。トマトもフレッシュトマトを湯むきして、なんてせずに、紙パックのカットトマトとか使っちゃう。こんなふうに、いつもテキトーに作るラタトゥイユだけど、やっぱりニンニクとオリーブオイル、白ワインだけは欠かせない。この3つさえあれば、どうやっても地中海な感じにはなってくれるんだよねえ。  この発音しにくい料理、ラタトゥイユを最初に知ったのは栗原さんの本だったと思う。栗原はるみさんの『ごちそうさまが聞きたくて』だ。Tくんのインカレの応援で、Iちゃんの家に泊まらせてもらった時に教えてもらったんだ。「ね、美味しそうなものばかり載っているでしょう」と、Iちゃんは本を広げて見せてくれた。料理だけじゃない、器やクロスにも目がいく写真たち、なんとなく上品な字体、飾らないのにオシャレ感をまとった文章に、もう釘付けの私、本当だ、ほんとに何から何まで美味しそう。「ね、全部作ってみたくなっちゃうの」  一人暮らしの自宅に帰ってから、大学生協ですぐに買った。あまりに好きすぎて、母にも紹介した。こういうレシピ本、栗原さん以前には、あまり無かったんじゃないかな。「作ってみたくなっちゃう」気持ちにさせる本。   「うちは野菜をいっぱい食べています。」 という、本の言葉にいざなわれて、ウチもそんな食卓に、なってる気分になれるラタトゥイユ。この夏もいっぱい作ろう。

桃の「も」

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   桃農家のKさんから、今年も桃をいただいた。「熟れすぎているから、今晩か明日の朝には食べてね」とKさん。いつもの朝ごはんに、瑞々しい桃が加わった。  Kさんは、「今年は収穫直前に雨が降って、それでグンと一回り大きくなったから、なんだか味がぼやけちゃったみたい」と言っていたけれど、1年ぶりに食べる桃は芳しく、一口とろりと食べるごとに、身体の隅々に桃の果汁が染み渡っていくようで、蒸し暑さにまだ慣れずにいる体に生気をみなぎらせてくれた。桃の魔法だ。まさに若返りの果実。  桃って結構人気がある果物なんじゃないだろうか。普段、果物に表立って関心を示さないTくんも、桃には何かしらの反応がある。八兵衛ももちろん、大好きだった。  桃を食べるといつも思い出すのは、Kおじちゃん夫妻が持ってきてくれた桃のことだ。脳天をつく美味しさ、ああ、こんなに美味しいもの、食べたことがない、いくらでも食べられる、と思った。これまで、あれ以上の桃には出会ったことがない。きっと今後も出会うことはないんだろうな、こういう記憶には、決して勝てないものだから。それにしても、一体、どこの桃だったんだろう。多分、旅行のお土産だったんじゃないかと思うんだけど。  あんまり美味しいものだから、八兵衛と私は種をとっておいて、増やせばいいと考えた。でも大人たちに「桃栗3年」と聞いて、ええ?3年?3年も待てない!と思ったのだった。そりゃあ、ジャックと豆の木のようにはいかないよ。でも、あの頃は、3年「も」って思ったんだな。  マスク生活3年目の夏、桃食べて若返ろう。

大好きなサラダ菜 柔らかくておいしいサラダ菜

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    文鳥のJさんはサラダ菜が大好きだ。飼育書に従って、まだ独り餌になっていない時から小松菜をお部屋にぶらさげていたおかげか、小松菜だの、サニーレタスだの、菜っ葉類が大好きになった。サラダ菜は最近の一番のお気に入りで、特に芯の方が好きらしい。  Jさんのためにサラダ菜を切らさないようにしているので、うちの朝ごはんにはサラダ菜がいつも登場する。ワンパターンな朝ごはん、ミルクティーにトースト、サラダ菜にスライスチーズ。豆乳ヨーグルトには蜂蜜ときな粉、黒ゴマをすりすり。豆乳ヨーグルトは豆乳にR-1ドリンクを入れてヨーグルトメーカーで作る。ヨーグルトメーカーは「ヨーグルティア」だいぶ前の両親サンタのプレゼントだ。豆乳はトップバリューのグリーンなんとかで作るのがまろやかに仕上がって好み。ヨーグルトにきな粉と黒ごまを入れるのは同僚のKちゃんに教えてもらって以来だ。  今は朝ごはんの常連のサラダ菜だけど、昔はサラダ菜って、なじみが薄かった。名前の割に、サラダに入ってるのはレタスばっかり。サラダ菜だったら、もっとおいしいんじゃないかなあ、うっすら思っていた。どうしてかって、これも『たろとなーちゃん』のシーンが頭にあったからだ。  たろとなーちゃんのお友達のカメさんがプレゼントをもらうんだ。黄色いリボンの包みを開けると、中にはサラダ菜。「やわらかくて、おいしい、サラダな。カメさんのだいすきなサラダな」 嬉しそうにサラダ菜をむしゃむしゃするカメさんの絵。ああ、サラダ菜、なんておいしそうなんだろう。  『たろとなーちゃん』は読んでくれた母も大好きで、それなのに、いつの間にか家から無くなってしまっていた。それをいつだったか、八兵衛と母がどこかのバザーで見つけて、また買ってくれたんだ。それが今も実家の本棚にあるはずだ。今度帰省した時、読み返してカメさんに会いに行こう。Jさんがサラダ菜にパクつくのを見るたびに、あのカメさんのこと、思い出しているんだから。

木いちごは光る

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   日曜日は自治会の環境美化活動の日で、朝から地域の草刈りや側溝掃除をした。みんなで一斉にするのは2019年以来だ。空き地の笹薮に、今年も木苺がなっているのを見つけた。前に近所のUさん(だったと思う)が「ほら、木苺だよ!」と言うなり、取って口に放り込んでいたから、きっと木苺なんだろう。  「木苺」という言葉に最初に出会ったのは『たろとなーちゃん』だったと思う。大好きな絵本で、それはもう、何度も何度も読んでもらった。こぐまのたろと、うさぎのなーちゃんが木苺を摘みに行く。木苺、どんな味がするんだろう。お店で買うのでも、畑で採るのでもない、野に「摘みに行く」苺のことが、ずっと気になっていた。  そうして、ついに本物の木苺に出会えたのは、小学校も高学年になってからだ。八兵衛が、学校の帰りに、「秘密の場所」に案内してくれた。まさに、写真のような藪の中にキラリと光る木苺。その時のは、こんなに赤くなくて、もっと薄くて、オレンジっぽかった。「木苺だよ。食べられるんだよ。」と言うなり、八兵衛は取って口に放り込んだ。洗わないで食べたりなんかして、大丈夫かしらと、ざわざわしていたのに、気がつくと八兵衛に続いていた。そうして食べた木苺は、大して甘くもなく、特別美味しいというわけじゃなかったと思うのに、すごいね、すごいね、と笑い合ったんだ。  大学3年の時、フィールドワークのガイダンスで、T山を歩いていた時にも木苺に出会った。地質学について熱く語りながら歩いていたO教授が、不意に、「あ!オヤツだ!」と言うなり、何かを口に放り込んだ。日に焼けた強面のO教授は笑顔で、ごつごつの大きな手には、やっぱり、ビーズ細工のような木苺が光っていた。  この日曜日も、木苺はキラキラと光っていた。そしてあの日、八兵衛と、O教授は、笑っていた。